個人的忘備録

 

8月18日23時前頃

残念なことに、荷物の片付けが済んでしまう。夏場は暑いのでエアコンのある御祖母の部屋で預かって頂いており、それならに生活していたのでそれなりに生活感の出てしまっていたお部屋。夏場、お邪魔する前の姿に戻ってしまった。父親は23時に出ると言う。母と私は23時半頃を出発予定としていたが、片付いてしまったものは仕方ない。発つ前にシャワーを浴び、弟君に挨拶を告げる。色々頑張れってな具合に。

猫と握手し、手を振りつつ、生まれ育った街を離れることとあいなった。

コマレオでガソリンを入れる。育ててくれた景色を目に焼き付けようと、道中福島駅前に寄り道し、二本松から高速に乗り、安達太良SA。ブラック2本とモンエナ1缶を装備し、磐越道を抜け新潟へ向かう。福島を過ぎたのは3時過ぎだっただろうか、交通量はほぼ皆無と言って良かった。新潟に入り、4時、5時とPAでトイレ休憩、スタンプラリ。

どう言うわけか両親が所望していた、新潟と富山の境にある親不知・子不知に6時前後に着き、豚汁を購入し、持ってきたサンドイッチと共に朝食として頂いた。

富山も真ん中に差し掛かった頃、眠くなってきた気がしたので、運転を代わっていただき後部座席で1時間ほど仮眠。9時前後に賤ヶ岳SAに到着。みんなで蕎麦とうどんを食べた。美味しい。甲子園も第一試合、第二試合が終わり、第三試合というところで目的地に着いたのだろうか。高速道路内で6000円分はガソリン代に使い、高速料金は10,000円弱といったところ。新幹線とあんまり料金変わらないのでは?

新居に向かうべく、難波のアパマンショップへ鍵を貰いに行く。両親にはグリコ周辺を車で回って頂いた。その後、新居の傷等を調べ、15時チェックイン。土曜もあってか、ホテルのロビーはやたら混雑していた。その後暫く部屋で仮眠の後、晩御飯を食べに難波へ。串カツ、たこ焼きを食べ、満足を頂いたようである。その後ホテルのバーに戻り、6,000円分ほど飲酒し、風呂に入ってその日を終える。次の日、何しようかね?と言うことで海遊館へ遊びに行くことに。弁天町から大阪港へ、行った矢先で海遊館は入場制限をしていると言うことだった。あれま、天保山のショッピングモールを散策した後観覧車に乗り、一同アベノハルカスへ。近鉄デパート散策ののち、古潭にて餃子を食べ、ホテルに戻りました。晩御飯は梅田、ミライザカ。こちらも満足してくれたようである。盛大に飲んで、食べた。心が痛いくらいだ。

次の日は何故か午前中は甲子園、初戦の序盤は外野席に座れこそしたが、照りつける日差しが長居を許すことはなかった。聖光学院グッズを買い、甲子園カレーを食べ、甲子園球場を軽く散策し、11時半頃には帰路に着く。試合の終わりを告げるサイレンを聴いたのは甲子園駅へ向かう途中のことであった。

嗚呼、こんなところであろうか。人は忘れたくなくても忘れてしまうもんである。何と欠陥のある動物だろうか。別れの間際、名残惜しい。残念ではあるが、手を振ってサヨナラすることにあいなった。

その後、ニトリで家具を購入し、各地のセカストの冷蔵庫や洗濯機を探す旅に出た。

寂しくも新しい生活が始まるのだ、そうだ、風俗に行こうつって兵庫は福原に赴いた。あやのさん。島根生まれの広島在中らしい。宣材写真とは異なりお腹に許容可能な限りのお肉が付いており、いつの使ってるんや?と言う感じであったが、前戯も馬乗りもまぁうまかったね。初めてダァ〜つって、80分枠だったのに1回止まりだった訳であるが???

そんな感じで何気ない、かつ特別かもしれない1日が過去のものになっていく。僕は阪神高速を使って新居に帰ってみる。

年の流れは残酷だ。というが、常にそうだ。それは性質の変化がそれを理解させてくれる訳でなく。どんな経験も二度同じように捕まえることは出来ないと思いますので。割れガラスのやうに、握った瞬間に、痛みと出血が伴う。痛かったことだけが記憶される。

ワシは変化など求めてなかったんだなぁ。