個人的忘備録

 

8月18日23時前頃

残念なことに、荷物の片付けが済んでしまう。夏場は暑いのでエアコンのある御祖母の部屋で預かって頂いており、それならに生活していたのでそれなりに生活感の出てしまっていたお部屋。夏場、お邪魔する前の姿に戻ってしまった。父親は23時に出ると言う。母と私は23時半頃を出発予定としていたが、片付いてしまったものは仕方ない。発つ前にシャワーを浴び、弟君に挨拶を告げる。色々頑張れってな具合に。

猫と握手し、手を振りつつ、生まれ育った街を離れることとあいなった。

コマレオでガソリンを入れる。育ててくれた景色を目に焼き付けようと、道中福島駅前に寄り道し、二本松から高速に乗り、安達太良SA。ブラック2本とモンエナ1缶を装備し、磐越道を抜け新潟へ向かう。福島を過ぎたのは3時過ぎだっただろうか、交通量はほぼ皆無と言って良かった。新潟に入り、4時、5時とPAでトイレ休憩、スタンプラリ。

どう言うわけか両親が所望していた、新潟と富山の境にある親不知・子不知に6時前後に着き、豚汁を購入し、持ってきたサンドイッチと共に朝食として頂いた。

富山も真ん中に差し掛かった頃、眠くなってきた気がしたので、運転を代わっていただき後部座席で1時間ほど仮眠。9時前後に賤ヶ岳SAに到着。みんなで蕎麦とうどんを食べた。美味しい。甲子園も第一試合、第二試合が終わり、第三試合というところで目的地に着いたのだろうか。高速道路内で6000円分はガソリン代に使い、高速料金は10,000円弱といったところ。新幹線とあんまり料金変わらないのでは?

新居に向かうべく、難波のアパマンショップへ鍵を貰いに行く。両親にはグリコ周辺を車で回って頂いた。その後、新居の傷等を調べ、15時チェックイン。土曜もあってか、ホテルのロビーはやたら混雑していた。その後暫く部屋で仮眠の後、晩御飯を食べに難波へ。串カツ、たこ焼きを食べ、満足を頂いたようである。その後ホテルのバーに戻り、6,000円分ほど飲酒し、風呂に入ってその日を終える。次の日、何しようかね?と言うことで海遊館へ遊びに行くことに。弁天町から大阪港へ、行った矢先で海遊館は入場制限をしていると言うことだった。あれま、天保山のショッピングモールを散策した後観覧車に乗り、一同アベノハルカスへ。近鉄デパート散策ののち、古潭にて餃子を食べ、ホテルに戻りました。晩御飯は梅田、ミライザカ。こちらも満足してくれたようである。盛大に飲んで、食べた。心が痛いくらいだ。

次の日は何故か午前中は甲子園、初戦の序盤は外野席に座れこそしたが、照りつける日差しが長居を許すことはなかった。聖光学院グッズを買い、甲子園カレーを食べ、甲子園球場を軽く散策し、11時半頃には帰路に着く。試合の終わりを告げるサイレンを聴いたのは甲子園駅へ向かう途中のことであった。

嗚呼、こんなところであろうか。人は忘れたくなくても忘れてしまうもんである。何と欠陥のある動物だろうか。別れの間際、名残惜しい。残念ではあるが、手を振ってサヨナラすることにあいなった。

その後、ニトリで家具を購入し、各地のセカストの冷蔵庫や洗濯機を探す旅に出た。

寂しくも新しい生活が始まるのだ、そうだ、風俗に行こうつって兵庫は福原に赴いた。あやのさん。島根生まれの広島在中らしい。宣材写真とは異なりお腹に許容可能な限りのお肉が付いており、いつの使ってるんや?と言う感じであったが、前戯も馬乗りもまぁうまかったね。初めてダァ〜つって、80分枠だったのに1回止まりだった訳であるが???

そんな感じで何気ない、かつ特別かもしれない1日が過去のものになっていく。僕は阪神高速を使って新居に帰ってみる。

年の流れは残酷だ。というが、常にそうだ。それは性質の変化がそれを理解させてくれる訳でなく。どんな経験も二度同じように捕まえることは出来ないと思いますので。割れガラスのやうに、握った瞬間に、痛みと出血が伴う。痛かったことだけが記憶される。

ワシは変化など求めてなかったんだなぁ。

労働讃歌

某ジムの会員になっている。月8,000円ぐらい払っているだろうか、とても週一では割に合わぬ。

せめて週二で通いたい。

筋トレには休養が必要らしいので、火曜か水曜、加えて金曜。

平日に二回通えるようでいたい。

ところが実際はどうだろう?

翌日の身体へのダメージを考慮して、少なくともそれを口実として、通うことが出来るのは金曜か土曜の夜中だ。

平日はと言えば、仕事から疲れて帰ってきて、翌日もあるので飯を食ってすぐに横になる始末だ。

疲れた、疲れている。

 

これで誰か得してんのか?って思うやんか?

生きてる意味さえ見つめ直したくなる。とは言え今更そんなこと考えるのも野暮だ。もしくは本当に生きているのだろうか、というところから話を進める必要がある。

とまあ、この文章からも分かる通り、不毛だ。後には疲れているという事実だけが残される。仕事中に疲れている余裕はないのだけど。肩から責務という荷を降ろすと、代わりにのし掛かる物は疲労だ。ああ、不毛、不毛。

まあ、なんだ。ジムに行きたいのに行けてないよねって話だ。前職では自由が効いていたので割と通えてたりしたのだが。加藤何某からは元気だなと言われよく腹が立っていたものだ。

他人に何が分かるだろうか?もとより元気などないが、気力はあっただけだ。今はガッツが足りねぇ。

明日もあるしもう寝ましょう。願わくばもう起きなくても済むように、アーメソ。

そう言えば海老原媼がご逝去された。

面識も義理もあったので香典を手向にご遺体の元へ伺った。遺族とは特に話題もなかったので、ご遺体にお別れの挨拶をと思い、「海老原老師…」と声をかけた。すると不意に声が弱々しくなり、何だか泣けてきそうな気がしたので足早にその場を離れた。

誰であれ知人がこの世から去るのは悲しいもんですね。

どうか永遠なる安らぎを

朝礼が終わるとすぐ、直人さんが賃金のことで横尾さんを中会議室に呼び出した。私も後に続く。そして20分ぐらい経過した頃だろうか、経理の斎藤さんが会議室の戸を叩いた。

曰く、私の家族から連絡があったそうだ。急ぎ折り返し、電話を試みる。

曰く、おばあちゃんの心臓が止まったとのことだった。心臓が止まったからと言って、死が確定した訳ではないが、兎角、私は会議室から解放され次第、祖母のところへ向かうこととした。

4号線をスピードをあげて直進する。道中、車の中で泣きそうになってしまったが、そんな訳ないじゃんか、と思い込み号泣までは至らなかった。

 

着くと、小さな個室の中には既に家族4人が揃っていた。祖母も含めると5人だっただろうか。小さな祖母を4人で囲んでいた。彼女は目をつぶったまま目を開けようとしない。既に全ての器具は外された後だった。

私が呼んだら反応してくれるのではないかと思い、声をかけてみる。必死で何度も試みる。

おばあちゃん!と、何度も繰り返しているうちに、無意識に涙が溢れて来た。私は体裁を整えるためにトイレに逃げ込む。鍵を閉めると密室の中で、不意に嗚咽が漏れてしまった。

トイレットペーパーで鼻をかみ、ハンカチで目元を整え、もう一度戦闘に臨む。しかし何度呼びかけても、屍のように返事がない。

 

残念なことに、いつまでも留まっていることを日常社会は許さない。少なくとも施設からは、荷物を持って移動しなければならない。

応えのない問答であっても続けていたいところだが、看護師の方が色々と祖母の身支度をしてくれるようだ。私に今できることはない。

お家に帰って祖母の帰りを待つことにした。

おばあちゃん、もう起きないんか?最後にそう言い残して、とりあえずその場を私は離れた。荷物を持って祖母の迎え入れの準備をする。

 

祖母は程なくして慣れ親しんであろう我が家へ帰ってきた。受け入れる為に片付けを終えた、祖母の自室へ運ばれる。

すぐに私は先程と同様に、呼びかけをしてみる。やはり返事はない。すると不意に涙が襲ってくる。トイレに駆け込み、再び戦闘支度を整える。

暫くすると、家族各々が線香をあげにきた。

喪主である実父から始まり、最後に実弟が手を合わせ拝んだ時、私の無意識がそれを悟ったようだ。再びトイレにこもり、息を殺して泣きじゃくった。

私は祖母の死など信じられずに、線香をあげたのは最期になってしまったが。家族が全員祖母の部屋を去り、祖母の亡骸と2人きりになると、どうしても嗚咽が漏れてしまった。小さい頃から何も変わってないもんだな。漏らす時は漏らすわ。って思ったね。

 

うちの自慢のばあちゃんが死んだ。そんなことがあるのだろうか?

全く信じることができない。信じるべきか、信じないべきか。事実と受け入れ、大いに悲しむべきなのか。事実とは受け入れず、気のせいとして飄々と暮らすべきなのか。

うちのばあちゃんは強い。信じるに足る。確証がある、こんなところで死ぬはずがない、そのような祖母が死んでしまった。そのようなことがあるだろうか?

 

私は何度でも祖母に問いかける。ばあちゃん、起きよう、せっかく帰ってきたんだよ、と。同じフレーズばかり繰り返す私はCDの再生のようだ。大きく違うのは、私は、繰り返しているうちに涙が出てくるポンコツだ。サウナに入っている時にふき出す、汗の如く、大粒の涙が。

いつの間にだか夜を迎える。祖母と一緒に過ごすとなると、最期になるであろう貴重な夜だ。夜は1時から3時40分ぐらいまで一緒の部屋にいた。転職したことや行った県のことなど、話せることは一方的に話しただろうか。

目こそ開かなかったが、ばあちゃんは手を握り返してくれた。目を閉じたまま、こう続けてくれた。手術中、医者と目と目が合うので気まずかった、という話だ。同じ部屋には母か叔母がいた。

その日はそんな夢を見てしまった。最近の祖母は手術なんてしていない。日付は6月1日になった。

朝起きて、やっぱりというか、それでもおばあちゃんは起きてはいなくて。また泣いた。なんでばあちゃん起きて来ないんやろか。しとど泣きってこういうことだな。私は悲しみに明け暮れた。その日も過ごせるだけ、祖母の隣で時を削った。

次の日は午前中は、仕事へ出かけた。第二営業日は最も忙しい日のひとつだ。朝起きるとすぐおばあちゃんに挨拶をして、いつもより30分ほど早めに通勤途上についた。職場に着くと、どうだろうか。溜まっていたはずの仕事は同僚の阿部さまが殆ど処理をした後だった。

おそらく阿部さまにとっては私の仕事など造作もないに違いない。私の存在価値ってあるんだろうか。などと自尊心に傷がつく。

兎角、これなら早く終われるな。もう2時間程早く帰ることも可能なんじゃないか?などと考えていたら、しっかり半休分の時間に達していた。私は仕事を切り上げ、出来るだけ早く帰路に着く。祖母の亡骸が斎場に移るのは15時だ、今は一刻も時間が惜しい。そのまま家に着くと、殆ど人の気配がなかった、私はおばあちゃんの部屋に入り、挨拶をするとまた泣いた。ドライアイスの仕事により通常では再現不可能なほど、冷たくなった祖母の手を握り、運び出される時間までそうやって待つことにした。

未だかつて、これほど、ネクタイのことを社会からの首輪だと思ったことはなかった。散歩に無理やり連れ出される犬の気持ちが分かったようだ。我がご主人たる、重さ約2トン程の鉄の塊が、私の体を斎場へと引っ張っていく。

送迎車からの眺めはグレーのスモークでもはっているのだろうか、心なしか薄暗い。それでも空を見上げると、太陽からの反射を受け、雲が真っ白なのがよく分かる。これほどの皮肉があるだろうか。程なく納棺式、通夜などがその日に済んでしまった。

翌日、告別式は素晴らしい土砂降りだった。コンクリートに飛沫たつ雨粒は、水面の餌に群がる鯉を思わせる。一瞬にして駐車場は水面と化し、猪苗代湖に成り代わったようだった。

でも、ひょっとすると祖母の見慣れた景色なんだろうか。だとしたら粋な計らいなのだろう。僕の部屋の窓、開けっ放しかも知れないけど。それもまた一興か。私の部屋にも私の涙をくれてやろう。

13時になると、残念ながら告別式が始まってしまった。私が。私が、お別れの言葉を読むハメになっていた。今まで散々泣いたので、もう泣くこともないだろうと思っていたのだが。一言目のおばあちゃん、と言ったところで次の言葉が続いてくれなかった。やはりと言えば、やはりなのかも知れない。その後の住職の話はさっぱり頭に入って来なかった。結局祖母は最後まで起き上がることはなかった。

祖母が火葬場に運ばれる。あってはならないことだ。そうは思っても、霊柩車を先頭とする車列に追従する他にない。火葬場では1時間半ほどで亡骸がホネになってしまうという。納骨式など、骨だけになってしまった祖母のことなんて、到底見ることに忍びない。祖母が高温で熱せられたことを想うと、ひどく心が痛む。しかし私の意思など、祖母が骨にならない理由にはならない。せめてその場はと目を瞑っていたが、暫くするとすっかり骨壷に収まってしまっていた。

色即是空 空即是色

あるものがあるとは限らないし、ないものがないとは限らない。そのようなことを感じ取った。なくたって、ある。祖母は心の中にいる、などと言ってしまえば陳腐だが。

 

祖母の訃報に触れて3日が経った。

深い悲しみに暮れることができ、人生で1番泣いた3日間だった。祖母と一緒に、最期に過ごせた、本当に尊い3日間でもあった。祖母の冷たい手の感触。余計な肉など全くなく、あんなにシワシワだったのに、闘病でブヨブヨになってしまった掌。最期は一日中、二人で一緒にいれたこと。暇さえあれば祖母に起きるように懇願していたこと。最期にはお疲れ様、ゆっくり休んでね、と伝えることが出来たこと。いつまでも心に留めておきたいと、願う。

 

大好きだったおばあちゃん、また会う日まで。

また一緒に暮らせる日まで、元気でいて頂戴ね。

 

 

 

親愛なる我が祖母へ

おばあちゃん

困ったねぇ

 

今日ほど来ないでいい明日は

なかったんだけなぁ

花もせっかく買ったのにまだ感想も聞いてないや

一言ぐらい喋ってみたらどうなんだい

 

おばあちゃん

困ったねぇ

 

先々週の土曜日までは

ちゃんとお話も出来てたのにねぇ

 

いくらおばあちゃんって呼んでみても

返事をしてくれないどころか

目を開けてもくれないんだもんねぇ

このままだと焼かれっちまうぞい

起きんなら今のうちだぞい

 

おばあちゃん

おばあちゃんは強くて優しくて

自慢のばあちゃんだったからねぇ

 

可愛い孫を2人も残して

どっかさ行っちまうなんて

到底信じらんないぞい

ましてや勝手に死んじっちまったなんて

誰が簡単に信じられんだい

 

おばあちゃん

信じて待ってればまた元気になるって

最後まで信じて待ってたんだぞい

 

周りはねぇ、気の早い話ばっかりしてたけど

こうき君は最後まで信じて

おばあちゃんの帰りを待ってたんだぞい

 

おばあちゃん

おばあちゃんとは一緒に

色んなとこさ行ったない

おばあちゃんはどこが一番良かったんだい

おばあちゃんの人生はどんなだったんだい

困ったなぁ、まだまだ話、聞きたんにぞい

 

おばあちゃん

天国さ行っちまったら

会いたい人に会えるようになるのかねぇ

ばあちゃんは誰に会いたいんだろうねぇ

 

おばあちゃん

また後で会おうない

もう暫くは会えないかも知れないけど

きっとまた会うんだぞい

そしたらまた一緒に暮らすんだぞい

それまで元気でいんだぞい

 

美味しいものいっぱい食べて

お肉もしっかり食べて

次会う時までちゃんと健康でいんだぞい

 

おばあちゃん

また後で会おうない

私は彦根城

大阪研修、初の週末を迎えた僕は遠出してみることにした。西日本に滞在する滅多にない機会でありましょう、目指せ行く機会のない土地を訪れまくりなのである。

第一週目は滋賀、福井なのである。彦根城東尋坊を一日で訪れよう等という人物はなかなかいるのかな?といった具合である。

いや、ない。

しかしまぁ琵琶湖県と言えば滋賀、往けども線路沿いには湖畔風景が携わると言った具合、具合である。いかに日本一の湖と言っても対岸が見えないようなことはなかった。それにしても我らが猪苗代湖に比べると発展具合は比べ物にならない。猪苗代湖周辺ももっと栄えて欲しいなと思うけど、残念ながら猪苗代は町だけど、英夫の何かとガラス館みたいなのと小さな水族館はある。観光客が一応の相手という訳ですね。

大阪彦根間は1980円、1時間30分ぐらいで着くようだね。彦根の駅から10分ほど歩くと彦根城に踏み入れる。車窓から彦根城を拝むことができましたが、歩いてみるとほんのり遠い、そんな距離でありました。道中はこれと言ってなし駅前通りと言うことを考えると会津の方が発展してる、かも知れないね。

入場したのは朝8時30分過ぎぐらいでありました。急勾配にひいひい言いながら上っていくと、彦根城は良くも悪くも昔の面影を残していた、そのままが残っていた。鶴ヶ城に比べて観光地化していないというか、鶴ヶ城の方が立派な印象を受けたけど、それ故に彦根城世界遺産申請を目指すのであろう。行ってみると割としょぼい世界遺産、なんて想像に難しくないけど何処もそんな感じなんだろうなという印象だね。

ガイドさんも千円か二千円で独り占め出来るらしい、頼まなかったけど。天守閣から見渡す風景はやはり琵琶湖が目に映えました。しかしまぁ城中は色気がないというか、資料などもあまり目につかないし通路があって城下の景色を見渡せる、ってな感じである。何処の城もそんなもんなのかな?

と言うわけで併設された史料館だか美術館にも足を踏み入れた。日本語オッケー?立派な刀が私を受け入れてくれた。わーいわーい。そこで私は日本史の受験生なら一度は目にする隠元隆琦と感動の再会を果たしたのである!!!隠元隆琦って誰やねんって黄檗宗ってのを拓いたらしいよ。オウバクシューって何やねん。彦根市は一刻も早くシュークリームを作って売れ。

史料館内にある日本庭園はそれはそれは素敵なものでした。わびさび!一見の価値、あると思います!!しかし全体的な印象としては小中学生が社会科見学とか修学旅行で訪れるような、そういった印象を受けましたね。

と言うわけで彦根から敦賀を抜けて福井へ。鯖江も通過しました。SABAE、フランス語っぽくないっすか?語尾が〜AEで終わるとそれっぽく聞こえると良いなぁ、イノセントワールド。彦根福井間は2000円で2時間15分ってぐらい。ですが時間が惜しいので1時間半で3200円のコースにさせて頂きました。福井駅周辺も何もなかったなぁ〜って思うと福島駅は割と栄えている方なのかも知れないよ、どんぐりの背比べ。電車を乗り換えて私は三国駅へ向かいます。えちぜん鉄道三国芦原線と言うようだ。車内にはコンシェルジュだかアテンダントだかって言うお姉さんが乗っていて、企業努力を感じた。三国駅まで50分、730円ほどかかるようですが往復1000円みたいなチケットを買うことができた。僕はこのチケットを買う為に生まれてきたのかも知れないと思った。何時に乗ったのだろうか、学生達が思いの外多かった、、青春だな。私にもそんな時代があったのだろうか、中島みゆきに僕は問うてみた。中島みゆき「yes of course!」どうやら同姓同名の方だったらしい。中島みゆきの全ての楽曲へ、おめでとう。

はい、えー、と言うわけでね、やって来ましたよ東尋坊!自殺の名所、サスペンスドラマの終盤の崖のシーンと言ったらココ!ってのが私のin show!三国駅からバスで数駅、崖だけがある場所と思っていましたらこちらはしっかり商業化されてましたね!もののあわれ!例えるならリトル江ノ島。海鮮丼が食べれるところはいっぱいあるしお洒落なカフェだってありました。イワバカフェーでしたかな、スナバ珈琲を思い出しました。ちなみにしっかり海鮮丼食べてきました、2000円。貝焼いたヤツ2本で1000円、計3000円の散財です。まぁご祝儀ですね。

「がけっぷち」Tシャツ、心をくすぐられたり。買わなかった訳を教えてよ。代わりに東尋坊と書かれたショットグラスを買ってきた。小物入れとかに使えそうじゃない?肝心の東尋坊の風景に関しては割愛します。いやでもこれは足を滑らしたらフツーに死にます。手付かずの自然のあるがままの姿です。行けるところまで行けるのだけれど、規制されないことを願うばかりです。世界はありのままで良い。

その後はバスを使って道中に休暇村なんていう心が惹かれる名前もありましたが、急遽存在を知った越前松島水族館へ。青森にある浅虫水族館のように昭和の香りの残る建屋でしたが、しっかりアイデンティティが確立されていた。生き物との距離感がめちゃくちゃ近い。ウミガメなんてフツーに触れる、水槽の上の方がオープンスペースなので(触っちゃダメだよ!)イルカさんの水槽も独り占めできました。イルカさんもこちらに気を取られたようで、暫く構ってくれました、と言った具合。ペンギンが歩いていたよ、よちよちぺんぺんって。カワウソ、飼育スペースをそのまま展示と言った風でしたが、戯れてるのか喧嘩してるのか常に動きがあったので無心に鑑賞することが出来ました。当然と言えば当然か、カップルでのご来館が多かった。しかしおっちゃん3人で仲良く楽しんでた班もあり、微笑ましくも思う。一人ではこりゃいかんですな。あは!

そんな駄洒落を思いついた罰か、私はすぐにサンダーバードに乗って帰らされた。雷鳥。俺はもう平塚だを。

途中で降ろされたあわら湯のまち駅では、駅近に足湯施設があって、良いなと思った。

 

俺はもう、平塚。

ア○ホテルのカイダン

 

大阪駅近くの○パホテルに泊まった時の話。

10時半から脱毛サロン行くつもりだったのに予約ができていなかったらしく、チェックアウトを1時間延長して、再び寝ることにした。

すると夢か現か幻か、人の入ってくる気配で私は目覚めた。入り口から足音が近づいて来るのが、分かる。うわ〜、絶対誰かいるじゃん、何てことを思う。でも、不思議と目が開けられなかった。金縛りのような感じだ。実際、手足を動かそうとは試みなかったが、目は開けられなかった。

もう一度、人の気配がした。近づいて来るのか遠ざかって行ったのかまでは分からなかったが、やはり足音のように感じられた。

私は頑張って起きようとした。そのまま目を閉じてた方が良いんでないの、と考えられるぐらいには思考に余裕が出ていたが、目を開けようとした。開こうと思っても、薄目が精一杯だった。おめめぱっちりにはならなかった、眠気がせいか。

薄目から見た部屋の景色は何ら変化なかったように思えた。影のような存在があったかもしれないが、例えそうであれ、それは想像の産物だったように思う。

そんでその隙間から下界を認識しようとした瞬間、上に落ちるような感覚に襲われた。上というよりは頭の方向に、と言うのが正確で、誰に引っ張られるような感覚ではなく、身体の全体がそちらの方向へ当然に、といった具合に。ウォータースライダーとか滑り台とか、そんな感じだ。

その後に私は目覚めた、何事もなかったかのように。そう言う夢を見たのだったのだろうか。超常現象的な片鱗に触れたのだろうか。チェックアウトの延長に気が付かずに、清掃員の方が入ってきたのかな、などと思ったりもしたが。生きてきて初めての経験でありました。

 

明日から新しい職場だ、不安だ。なるようになる。早く明日がおわりますように。

 

追記

翌日、出社しようとしたら、家を出てすぐのところで蝿の群がった黒い子猫の死体が落ちていた、不吉か。しかし出社時間に誤りがあったようで、すぐに帰宅することになるのだが。帰り道ではもうなくなっていた。その間約20分程。本当に存在していたのだろうか、悪夢はまだ続いているのかも知れない。

転がる理由、公務員面接。

転職活動も落ち着きましたので、ここらで整理しておきましょうかね。

遡ること去年の夏、我が愛しの口座ちゃんに振り込まれたボーナスは例年の半分で、翌年四月、まるでその責任を取るようにトップが交代し、勤め先は閉園されました。

  • ところで某、コネ入社につき特別に調整手当を頂いておりましたが、理事長交代の折に給料形態も見直され、特別扱いもなくなり。まぁ致し方ないかな、とも思いましたが反比例するように結構給料があがる教員陣。教員優遇に舵を取ったということでしょう。某、四大卒なのに短大卒より貰えないのはどうなのかな、このまま残っていても賃金格差は広がる一方ですよな、と言ったところでござい。
  • 将来的にも幼稚園の事務職一筋っていう職歴は如何なものでしょう?年取ってからガチで転職しないといけなくなった時に需要あるのか?
  • にしても理事長の御子息も、体調不良で出勤してなかった折も、給料はキチンと全額。おまけにほぼ来もしないのに結構な副園長手当。尊敬に足る人物と言うには難しいと思う次第です。
  • 最後に付け加えると、送迎車内のガキ共がガチでうるさい…!!騒音で気が狂いそうになります!大人しくさせておけば良いものを、随伴者が子供をおもちゃに、まるで後方に動物園を載せて走っているような。霊長類のお猿の小屋、アレでした。教育と療育をモットーとしている施設でしたが、彼がしているソレは子守り。そう言うのはプライベートでやってくれや〜(佐藤先生、貴方です!)
  • もうひとつありましたわ、新理事長な、性格がそのお母様に似ているんですわ。お母様と言うのはそもそもの私達の上司で、これが為に我々労働者は辛酸甘苦の経験を積んだ訳です。彼女には誰も触れない自分のワールドが存在し、それが為に我々は怒られるのです。どうやら彼にもその節がある気がします、大丈夫かこの組織、、と言った具合。

幼稚園の事務職として六年ほど勤めておりました。子供は好きだと思っておりましたが、子供の集団は嫌いになりました。子供が可愛いからと、おいそれと、それに勤務するのはお勧めしないです。しかし社会人の何たるかを学んだ気ではいます。2度、幼稚園に入園し、卒園したと言う訳です。幼稚園の閉園をもって卒園とするのも、まぁ良いタイミングでありましょう。

そんな渦中に転職活動をしつつ先の工場に総務として受かった訳です。求人票の提示額は400万〜600万とありまして、見ていた中では最高値だったのですが、蓋を開けてみたら約330万でした。曰く「もっと年齢高い人を取るつもりでいた」と。なんぞそれ、そんなことがあって良いのか?

まぁ良いけど(笑)

そんな訳で9月からは新しい職場です。恐ろしや恐ろしや。

ところで同時に某市の公務員試験も受けたんですよね。無料で受けられる訳だし、受けた方がお得じゃない?と言う訳が20%程。

公務員になりたいとは思ってませんでしたが。安定しているのが嫌で。公務員になったら老後を待つだけだなって気がしてまして。人生の終着駅な気がしまして。

しかし四大卒じゃないと受けられないし、なりたいようになって来なかったら人生なので、それはそれでアリかな?が80%程。

志望動機としては、少子化が原因で閉園しまして、びっくりしまして、同じように行政課題にぶち当たり困ってる人がいるなら支援したいなぁと、思ったからです。嘘ではございません。

以下、

頂いた面接の質問と論文の課題をざっくりと。

▷ 集団面接

  • 志望動機
  • 自己啓発の仕方
  • 最近気になる伊達市のニュース
  • 場面場面での自分が果たしてきた役割
  • 嫌な部署に着いてしまった場合
  • 失敗したエピソードトーク
  • 部署内で意見が衝突した時
  • 友達関係で大切にしていること

▷ 個人面接

  • 気になったニュース
  • お年寄りとの関わり
  • 今現在続けていること
  • 職場の人間関係について
  • やっぱり我が市が良いですか?
  • 部署異動について
  • 挨拶の習慣、無視されたらどうする?
  • 仕事の上での理想と現実のギャップ

論文「withコロナ」

具には覚えていませんが大まかにこのように。クレペリン検査は一種の拷問だと思うんですよね、手が痛いです。何故かほぼ徹夜で行ったので計算結果はあまり良くなかったはず。全体的な結果としては、可もなく不可もなく、平々凡々な感触でした。7回4失点ぐらいです。これで受かってなかったら、やっぱり戦場にはフル武装して行かないとだなって、そうつぶやくばかりです。


本日は以上。